能登半島地震 被災地支援業務に参加して

珠洲市の被害の様子

年明け早々に石川県を襲った能登半島地震が起きて、2か月が過ぎました。復興は少しずつ進みつつありますが、被災者が日常を取り戻すまで、まだ時間がかかります。

大規模な断水が依然として続き、避難生活を強いられている人も1万人を上回っています。石川県内の死者は関連死を含めて241人に上り、住宅被害は7万5千棟を超しています。ピーク時に10万戸を超えた断水は約1万8千戸まで減ったものの、最大震度7を観測した珠洲市や輪島市、七尾市とも4千戸を上回っており、解決には程遠い状況です。

下水道の復旧も進まず、能登半島の6市町では、下水管の総延長の半分以上で汚水を流す機能を失っています。水洗トイレが使えないなど、衛生面も懸念されます。

生活再建のため、仮設住宅の建設も加速させなければなりませんが、着工したのは3500戸を超していますが、完成したのは1割足らずです。

 

大阪府からも多くの職員が被災地支援業務に派遣されています。公衆衛生班として派遣された保健師と避難所運営業務で派遣された社会福祉職の方々にお話を聞きました。

公衆衛生の現場を万全の態勢に

避難所巡回で人の温かさを感じた

1月16日から20日まで公衆衛生班として輪島市に行きました。現地に入って目の当たりにしたのは、報道以上の被害の大きさでした。倒壊している家屋が続き、地面に転がった信号機が転がったまま、青から赤へかわっていきました。

現地の保健所では、熊本県から来ているチームが陣頭指揮を取っていて、私たちはその指示のもと、避難所巡回をすることになりました。ロジ係の2人が現地までの地図と道路状況を調べ、巡回ルートを計画してくれました。

避難所は公民館のような所で、どこもそれほど大きくなく、戸口に立って声をかけると、すぐに人が出て来てくれました。「公衆衛生班」とは言いにくくて「大阪から来た保健師チーム」と名乗って中に入らせてもらいました。ロジの2人には、避難所の全体状況(昼間人数、夜間人数、ライフライン、トイレの数等)と食事調査を聞き取ってもらい、私たちは血圧計を持って、避難者一人ひとりに声をかけて回りました。東日本大震災の時は血圧が異常に高い人が何人もいたので、血圧変動は心配でした。

巡回して、まず感じたのは人の温かさです。「えらい遠くから来てもらってすみません。阪神・淡路の時は何もできなかったのになぁ」と言われる方や「寒かったでしょう、さあ、座布団を使って。あらまぁ冷たい手」と言って、私の手を自分の両手で包んで暖めてくれた90歳の女性もおられました。血圧はどの方も意外と低くて驚いたのですが、聞けば、食事は白ご飯とわかめの2~3枚浮いた味噌汁が少しと、あとはパンが多く、塩分は少ないようでした。「自衛隊の方々がご飯を炊いてくれているのに、塩けがほしいなんて、とんでもない」と言っておられました。どこまで辛抱強いのだろうと思いました。

長男を亡くされた老母は、次男から金沢へおいでと言われているけれど「私一人で行くのはねぇ」と言っていたと仲間から聞きました。長男を置いていくようで離れられなかったのでしょうか。居室に上がるまでの大きな段差に気づいて「不便はないですか」と聞くと、歩行器を使っている高齢女性が「困っているねぇ」と娘さんと顔を見合わせながら小声で言いました。さらに聞けば、停電をしているので、夜は何人かがつまずいているとのことでしたので、すぐに手すりを手配しました。

どんな工夫ができるか一緒に考える

ベッドに寝ている高齢女性に声をかけると「背中が痛い」と言うので、いつからか聞くと「ここへ来てから」としっかりとした返答がありました。体温は36℃でしたが、血中酸素濃度は低く88%でした。「座れますか」と聞くと、うなずかれました。「どなたか手伝ってください」と周りに声をかけると、小学生の女の子(お孫さんだそうです)が来てくれて、布団をはがしてくれました。起き上がり、しばらく深呼吸をしてもらって測りなおすと95%に改善していました。座位の効用をお伝えすると、しっかりとうなずかれたので、周りの方にもお伝えしました。

避難所巡回では、トイレや調理場も見せてもらいました。断水中にも関わらず、きれいに使っておられましたが、トイレの後、バケツに汲み置いた水の中で、みんなで手洗いをしていました。また、調理中も汲み置き水で手洗いをされていましたので、トイレの後は蛇口付ポリタンクを使っての手洗いするように、調理のときは使い捨て手袋を使うようにとお伝えしました。慣れたやり方を言われてすぐに変更することは簡単ではありません。「そんなん言われても…いっぱいいっぱいで…」と遠慮がちにおっしゃられた言葉に、こちらもうなずきながら、どんな工夫ならできるか一緒に考えました。

予防的観点で関わる公衆衛生の拡充を

最後になりますが、門前地区だけが空白になっていたのですが、後になって神戸市が1月8日から支援に入っていたことを知りました。能登半島の中でも、最も被災状況が深刻で、状況が不明の地域であったため、厚労省がノウハウを持っている神戸市にぜひ行ってもらいたいと依頼したそうです。神戸市がすごかったのは、現地に派遣された5人の活動を神戸市内の部局から20人体制で支えていたことです。

自然災害や感染症など、私たちはいつも脅威にさらされています。予防的視点で関わる公衆衛生の現場が日頃から万全の態勢でいられるような、そんな大阪府にしていきたいと心からそう思いました。

仕事へのあり方だけでなく日頃の防災意識を見直す経験に

トイレ、下着など衛生面が深刻

1月16日~23日まで輪島中学校での避難所運営業務につきました。輪島市内でも中心部近くの高台にある最大規模の避難所で当初は約900人、派遣当時も400~450人位が生活をしていました。中学校自体もひどい被害を受けており、階段が壊れていたり、天井板がはがれ落ちていたりと危険な状態の箇所もありました。水道も止まっており、トイレ問題が深刻でした。仮設トイレは準備されていますが、臭いなどもあり、学校のトイレに袋を敷いて凝固剤で固める場合もありました。また、洗濯ができないため、下着などの不足が深刻で全員に行き届かないため、住民代表と話し合ったり、かぶれなど医療的ケアの必要のある人から配布するなどの調整をしたりしていました。

食事は、自衛隊の炊き出しで朝夕はご飯とみそ汁があり、あとは支援物資を並べて必要な物を取ってもらうようにしていました。昼食は途中からキッチンカーも配置され、希望者は利用していました。入浴は、自衛隊の支援があり、希望すれば毎日入ることはできていました。

大阪府と府内の市町村職員10人のチームで業務にあたりました。宿泊先(ベース)が七尾市内にあり、派遣先の輪島中学校まで3時間近くかけ移動し、24時間業務にあたり、3時間かけてベースに戻るサイクルでした。移動する道中も、道路にひび割れがあったり、被災した建物や土砂が道路に広がり片側通行になったりし、雪の降る日もあり移動する際の運転にも神経を使いました。

10人のうち1人は輪島市役所の危機管理部署で情報収集し、1人が班長として危機管理部署との連絡や避難所の直接運営の指揮をとり、2人が衛生班としてトイレ等の環境保持、3人が療養班としてコロナや感染性の胃腸炎などの感染症対策を医療従事者のサポート、3人が流動班として簡易ベッドの組み立てや物資の搬入、入退所の準備など随時必要なことをする役割を担いました。

私は、班長業務を担い、1日2回ある運営本部会議に参加しました。会議メンバーは、輪島市職員、NPO、ボランティア、医療従事者の代表などで、避難所の運営について議論します。しかし、避難所運営のノウハウがないため、市町村から派遣された危機管理業務を知っている方に教えてもらいながら、各市の避難所運営マニュアルなども読み込んで、常駐の輪島市職員とも議論を重ねました。

子どもたちが声を出して遊べるスペースを

派遣された時期が1月1日の地震当日から2週間が過ぎ、当初のショックが少し和らぎ、今後の生活再建に向け立ち上がる段階に移行していく時期でした。一方で、避難生活が長引く中で、イライラや先への不安も高く、そのためには、避難所の運営をする中で、自治組織を作ることが必要だと感じ、組織づくりの基礎の部分に携わりました。

また、子どもたちが子どもらしく声を出して遊べるスペースが必要だと、住民代表はじめ関係者とも議論を重ね過ごせる場所としてキッズスペースを作ることにしました。発案当初は運用や責任問題もありOKが出ませんでしたが、子どもが子どもらしく過ごせ、保護者も周囲への気遣いから解放できる時間が必要であることを訴え、派遣期間中に形作り、引き継いでオープンしたと聞いています。中日新聞でも報じられました。

生活再建への準備ができる支援を

社会福祉職として、避難されている人が少しでも安心して生活できるように、そして生活再建に向けての準備ができるようにとの視点で避難所運営に関わりました。一方で、危機管理業務を知っているわけではないので、市役所から派遣されている職員の方が危機管理業務経験のある人などで役割を果たせるのではないかと思いました。

また、避難生活をする期間の中で、それぞれアセスメントをして必要な支援につないでいくことが大切だと感じました。いろいろな情報を案内しても、個人の状況にマッチしたものでなくては申請につながりません。また、地域で困っておられる方への支援ができる基盤も必要であり、地域福祉的な視点も援助には必要だと感じました。

今回の災害派遣の経験は、自分の仕事へのあり方だけでなく日頃の防災意識を見直す経験になったと思います。

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